記憶された家

記憶された家

散文詩「記憶のつくられかた」のあとがきで作者の長田弘は次のように述べています。
「記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌になってきたものが記憶だ。
記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけてそだてることができなければ、言葉はなかなか実らない。じぶんの記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生と呼ばれるものだと思う。」
含蓄のある言葉です。
物を所有しても、こころのなかに入るときは、記憶される言葉となってからとおもいます。
心には、物を所有しているか、していないかは関係ないようにおもいます。

私には12歳まで住んだ家の記憶、それから18歳まで住んだ家の記憶が鮮明にあります。
じぶんの記憶の中にある家のことを、言葉にすることを試みようと思い始めています。
「記憶された家」を言葉にすることは、こころの家、シェルターを築くことのようにおもいます。
その「記憶された家」の中に、現在住んでいる家も言葉としていれようと思います。
「記憶された家」をこころの中で言葉で建てることは、こころをつよくしてくれそうにおもいます。
こころの免疫力をたかめるようにおもいます。